よく 〜 八つのほこりの説き分け5

mochi-nobirun 2021年12月6日

天理教道友社から発行されている『みちのとも』立教163年(2000年)4月号に掲載された『基本教理を身につける[八つのほこりの説き分け5](上田嘉太郎著)』から『よく』を紹介します。

目次
  1. 基本教理を身につける[八つのほこりの説き分け5]
  2. よく
  3. 人のものを盗み、取り込み
  4. 人を欺して利をかすめ
  5. 人の日を盗んで数量をごまかし
  6. 人の物をただわが身につける
  7. 色情に溺れるのは色欲であります

基本教理を身につける[八つのほこりの説き分け5]

上田嘉太郎著
『みちのとも』立教163年4月号掲載

今回のテーマは「よく」と「こうまん」です。ほこりの親分格と言っていいでしょう。それだけに説き分けの内容にも、なかなかきつい言葉が並んでいます。

おふでさきにも、

ちかみちもよくもこふまんないよふに たゞ一すぢのほんみちにでよ
おふでさき (五 30)

と、特にこの二つを取り上げて戒めておられるところです。

なお、これで八つのほこりは出そろったわけですが、そのほかに「うそ」と「ついしよ」があります。

別席のお話には、「このほかに、口先のきれいにして真の心の汚い嘘(うそ)と追従(ついしょう)という二つのほこりがあります。よく慎まねばなりません」とあります。

おふでさきでは、

月日にハうそとついしよこれきらい このさきなるわ月日しりぞく
おふでさき (十二 113)

特に、嘘については、

これからハうそをゆうたらそのものが うそになるのもこれがしよちか
おふでさき (十二 112)

と厳しくご注意くださっています。

嘘は、一般に自らの利益や保身のためにつくものです。人を欺くわけですから甚だたちの悪いほこりです。人格を疑われます。

これも他愛のないものから悪辣(あつらつ)なものまでさまざまです。

事実に反することを言うといっても、例えば、ガンの患者さんにそれを告げないことがほこりになるかどうかといった問題があります。

今日では告知する方向に進んでいるようですが、それでも人により、ケースによっては知らせないことも少をくありよせん。

それがほこりかどうかは、やはり「かき寄せる」心遣いかどうかによるでしょう。患者さんのためを思いやってすることならほこりとは言えないと思います。

追従については、

口さきのついしよばかりハいらんもの 心のまこと月日みている
おふでさき (十一 8)

ともあります。

追従は嘘の一種とも言えますが、わざわざ取り上げておられるのはなぜでしようか。

追従とは、強い者、上の者にこびる卑屈な態度です。

教租にとっては世界中の人間はみな等しくかわいい子供でありますが、それだけに高山に暮らす者より、谷底にあえぐ弱者に、より心をお掛けになっていると申せましょう。

その弱い者たちが、弱さの故に取りがちな卑屈な姿勢を戒め、「神が見ている」、「をやがついている」と励ましておられるようにさえ感じます。

もっとも上役に取り入るためのおべっかやへつらいはあさましい限りですが……。

嘘と追従のいずれについても言えることは、人間目標(めどう)ではなく、「本道(ほんみち)に出る」「心の誠月日見ている」と親神様を目標に誠の道を通るようにということであります。

今回掲げました説き分けは、あくまで自教会用に別席のお話を元に作成したものです。ほかに「信者の栞」(教義及史料集成部編)による説き分けなどもあります。それぞれの教会でのよふぼく・信者の丹精の上に参考にしていただければ幸いです。

よく

「よく」とは、人のものを盗み、取り込み、人を欺(だま)して利をかすめ、人の目を盗んで数量をごまかし、何によらず人の物をただわが身につけるのは強欲。また、色情に溺(おぼ)れるのは色欲であります。

「よく」と「ほしい」との違いを強調するためでしょうか、これはちよっとどぎつい内容が並んでいます。まさに強欲です。

両者の基本的な相違は、ほしいが感情的なものであるのに対し、よくはより意志的だということでしょうか。

人のものを盗み、取り込み

人の物を盗み、取り込みとなると、こんなことは悪いと決まっている、言われずとも分かっている、というようなものです。

盗むなんてとんでもない、自分には関係ないと思いがちですが、例えば自転車泥棒。それほど罪の意識がない。無断拝借、乗り捨て御免。私自身や家族も何度か被害に遭っていますから、恐らくみなさん方も経験があるでしょう。盗(と)ったほうは軽い気持ちでも、盗られたはうは悔しいやら情けないやら、何日も探し回った覚えがあります。ほかにも、傘や公共の場の備品類などをちよっと失敬となると、身辺で見聞きすることもあるのではないでしょうか。決して他人事ではありません。

取り込むとは、預かり物や託された物を返さずに自分の物にする。これも意図的にやれば立派な犯罪、着服、横領です。

そこまでゆかずとも、借りた物を返さないのは、やはり取り込みになるでしょう。お金ならトラブルになりかねません。本などちょっとした物の場合は、ついウッカリ借りっぱなしということが珍しくないのではと思います。借りたほうは忘れてしまっても貸したほうは覚えているものです。いらだち、不信をつのらせ、信用を失うことにもなります。

人を欺して利をかすめ

そのまま解釈すれば、詐欺ということでしょう。

自社の利益のために、非加熱製剤を安全と称して販売した製薬会社などは論外ですが、似た話はあちこちにありそうです。

知らず知らずのうちに積みがちな日常的なほこりという点からすれば、何か人に説明をする時、自分に不利な材料を隠したり、加減をして話すという傾向はないでしょうか。また、有利に話を進めるために、都合のいい事柄だけを話したり、誇張したりということもありがちなことです。次に、

人の日を盗んで数量をごまかし

これは別席のお話では「枡目(ますめ)、秤目(はかりめ)、尺目(さしめ)をかすめ」となっているのですが、ちょっと言いまわしが古くて若い人には分かりにくいということもあって「数量をごまかし」としました。

ある部内の教会長の話ですが、その教会の初代はご婦人で、初めは米屋さんをしていたそうです。

米屋に嫁いだその奥さん(初代会長)は、熱心なお道の信仰者でした。

ところが、その店では米を枡で計り売りする時に枡の端に親指を入れて計る。そうするとその分だけ減るわけです。そして軽くサッとすくって棒でパッとならす。いつもこれをやっていると、毎日の事ですから、ずいぶん量的に差が出てきます。

その奥さんは信仰もあり、正直者ですから、指を突っ込むようなことはせず、それどころか揺すって、それこそ枡にいっぱい入れて売っておられたそうです。こんな嫁もろたら商売やっていけん、ということで米屋をやめた、という話を聞かせてくれました。

これなどは「数量をごまかし」の、それこそ枡目をごまかす話です。そういうことを、さして悪いと思わず当たり前として通ってきたわけです。

また、基準となるものをごまかす、という意味では、品質や材料を偽ったり、検査の目をくぐり抜けたり、あるいは手心を加えたりというのも、このたぐいでしょう。

人の物をただわが身につける

なにかのアンケートにありましたが、お金を拾った時に、警察へ届け出るという人の割合が少ないのにびっくりしたことがあります。半分もいかなかったように思います。警察に届けないでそのままネコババする。これはまさに「人の物をただわが身につける」行為であります。

「人の物をただわが身につける」のは、形あるものばかりとは限りません。人のお世話になった、親切を受けた、そのことに対する感謝を忘れては、ただわが身につけるほこりになりましょう。感謝の念と恩返しを忘れてはなりません。

もっと広く考えれば、この身上をお借りしているご恩、十全なるご守護に生かされているご恩を思わず、わが物、当然のこととして勝手気ままな通り方をしている姿こそ、ほこりの本元かもしれません。

色情に溺れるのは色欲であります

とあります。

別席のお話では「女に迷い、男に狂い、色に耽(ふけ)るは色欲」と、ちょっとあからさまな表現になっています。これも大きなほこりであります。

私ども、教会で夕づとめ後に奉唱しますのに、子供も唱えることですし、少し穏やかにというので「色情に溺れるのは色欲であります」とさせてもらいました。

ある先輩の先生は、「日本の将来を思うと、性の乱れが実に恐ろしい」とおっしゃっていましたが、その広がり、低年齢化は、社会の基盤である家族の要(かなめ)、夫婦の絆(きずな)を危うくするものです。 身分や地位のある人でも、また、一般庶民であっても、積みやすく、しかも、抜け出しにくいほこりであります。

表現を和らげてはおりますけれども、その中身には重いものがある、と承知しなければなりません。

※この記事は天理教道友社から発行されている『みちのとも』立教163年(2000年)4月号に掲載された『基本教理を身につける[八つのほこりの説き分け5](上田嘉太郎著)』から引用しています。

最後は『こうまん』へ

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