八つのほこりの説き分け1
天理教道友社から発行されている『みちのとも』立教162年(1999年)12月号に掲載された『基本教理を身につける[八つのほこりの説き分け1](上田嘉太郎著)』を紹介します。
基本教理を身につける[八つのほこりの説き分け1]
上田嘉太郎著
『みちのとも』立教162年12月号掲載
私共の教会では、「おつとめ」「おさづけ」と並んで、「基本教理の体得」を成人目標に挙げて、《ようぼくの栞(しおり)》なるものを作成し、「十全のご守護」と、「八つのほこり」の説き分けを暗唱し、身につけることを勧めてきました。その理解を深めるための一助として自教会などで実施した講習会での講話に手を入れたものが本稿です。
かつては、別席を運ぶ前に初試験として「十柱の神名」と「八つのほこり」を暗唱することを求められたということです。そして、おさづけの理を拝戴した人は、その「十柱の神名」と「八つのほこり」の話を頼りに、すぐさまおたすけに出向いたとも聞いています。
また、おさしづにも、
人間というものは、身の内かりもの八つのほこり、この理を分かりさいすれば何も彼(か)も分かる。おさしづ(明治21・7・4)
と「八つのほこり」をわきまえることの大切さを仰せくださっています。
本稿では、この最も身近な基本教理ともいうベき「八つのほこり」を取り上げます。
次に掲げますのは、私共の方で作成しました《ようぼくの栞》からの引用です。これは別席のお話の説き分けを元に、覚えやすく、親しみやすいようにと、若干縮めたり、表現に手を加えたりしたものです。
八つのほこり
一に「をしい」とは、心の働き、身の働きを惜しみ、租税や納め物を出し惜しみ、世のため、道のため、人のために身分相当のつとめを欠き、借りたる物を返すを惜しみ、嫌(いや)な事を人にさせて自分は楽をしたいという心。すベて天理に適(かな)わぬ出し惜しみ、骨惜しみの心遣いはほこりであります。
二に「ほしい」とは、心も尽くさず、身も働かずして金銭を欲しがり、分を忘れて良きものを着たがり、良きものを食ベたがり、また、何事によらず、あるが上にも欲しがる心はほこりであります。何事もたんのうの心を治めるのが肝心であります。
三に「にくい」とは、自分のためを思うて言うてくれる人を、かえって悪く思うてその人を憎み、また、嫁姑など身内同士の憎み合い、さらには人の陰口を言うて譏(そし)り、笑い、その場で出来た罪を憎まず、人を憎むなどはほこりであります。
四に「かわい」とは、わが身さえよければ人はどうでもよい。わが子の愛に引かされ、食べ物、着物の好き嫌いを言わし、仕込むベきことも仕込まず、悪しきことも意見せずして、気ままにさせておくのはよろしくありません。また、わが身を思うて人を悪く言うのもほこりであります。わが身わが子がかわいければ、人の身、人の子もかわいがらねばなりません。
五に「うらみ」とは、わが顔つぶれたとて人を恨(うら)み、わが望みを妨げたとて人を恨み、誰がどう言うたとて人を恨み、意趣にもち、銘々知恵、力の足らんことや、徳のないことを思わずして人を恨むのはほこりであります。みかぐらうたに
「なんぎするのもこゝろから わがみうらみであるほどに」みかぐらうた (十下り目 7)
とありますから、人を恨まず自分の身を恨むがよろしい。
六に「はらだち」とは、腹の立つのは気ままからであります。心が澄まぬからであります。人が悪いことを言うたとて腹を立て、誰がどうしたとて腹を立て、おのが理を立て、人の理が入らんから腹が立つのであります。これからは腹を立てず、理を立てるようにするがよろしい。癇気癇癪(かんきかんしゃく)はわが身の徳を落とし、わが身の命を損なうことがあります。
七に「よく」とは、人の物を盗み、取り込み、人をだまして利をかすめ、人の目を盗んで数量をごまかし、何によらず人の物をただわが身につけるのは強欲。また、色情に溺(おぼ)れるのは色欲であります。
八に「こうまん」とは、力も無いのにわが身高ぶり、人を眼下に見下し、富や地位をかさに着て、人を踏みつけにするのはほこりであります。また、己れは偉い、己れは賢いと思うて人を侮り、あるいは、知らぬことを知りた顔して人を見下し、人の欠点(あな)を探す、これが高慢のほこりであります。
覚え、身につけ、生かす
お互い「八つのほこり」についてはよく承知しているつもりでいますが、その説き分けまで言える人は余りないように思います。
別席のお取り次ぎの中で、このほこりの説き分けの条(くだり)になると、それまでうつ向いていた人が顔を上げ聞き耳をたてるといった姿を毎回のように見てきました。そんなところにも、だれもが思い当たる、最も身近な基本教理であることが窺(うかが)えるように思います。それだけに何とか部内の人たちに覚え、身につけてもらいたいと試作したのが前掲のものです。
また、これをわが身に当てはめて思案し、毎日の生活の上にも生かしてもらいたいとの思いから、例を挙げながらさらに噛(か)み砕いて話をしたのが本稿です。同じ思いの方も少なくないのでは、と参考に供する次第です。
心遣いを反省する手掛かり
「八つのほこり」の話をずっとたぐっていきますと、お道の御教理の全体に関わってまいります。天理教の教えというのはどういうものか、というようなところにまでつながってくるのであります。
天理教は世界一れつを陽気ぐらしに導く教えでありますが、銘々一人ひとりにとっては、運命を切り換える教えであります。また、ひいては世界の運命をも切り換えていく教えである、ということができると思います。
このままうかうかと、人間が皆気ままな通り方をしていると、遠からず人類全体が滅びてしまうことにもなりかねません。
そうであればなおさら、一人ひとりの運命を切り換え、人類全体の運命を切り換えて救い上げるだめの教えの使命は重大である、と言えましょう。
では、運命を切り換えるにはどうすればいいのでしょうか。
この教えは、拝み祈祷(きとう)の信心ではありません。願いどおりの守護ではなくて、心どおりの守護を下さる神様でありますから、日々の心遣い、通り方を改め、転換することによって運命を転換する教えであります。
おさしづに、
人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る。おさしづ (明治22・2・14)
とあります。
人間は身体は親神様からお借りしている、心だけが自分のものです。
そのたった一つの心からどんな理も、健康も、また、家々の治まりも、仕事の上のことも、何もかも一切の御守護が、このたった一つの心の使い方から出てくる、とおっしゃっているのであります。
ですから、心の道を切り換え、親神様にお喜びいただけるような心に入れ替えていくことによって、自分を取り巻く一切のものがより良い方向へと切り換わっていくということであります。
心を入れ替えるためには、まずこれまでの通り方を反省しなければなりません。この反省をし、心遣いの間違いを払拭(ふっしょく)するプロセスを、ほこりに託してお教え下さっているのであります。そして、親神様のお受け取り下さるような心に入れ替える。さらに、その心をしっかりと定めて変わらないように持ち続ける、実行するということが肝心です。その年限の積み重ねの中に、運命が切り換わっていくのであります。いんねんが切り換わっていくと申してもいいでしょう。
いんねんという言葉だけを聞きますと、何かちょっと暗いような感じがするかもしれません。しかし、いんねんという語は、元々は悪い意味では使っておられません。おふでさきの中にはいんねんという言葉が何度も出てまいりますが、はっきりと悪い意味でお使いになっているのは、
このよふハあくしまじりであるからに いんねんつける事ハいかんでおふでさき (一・62)
この一首だけであります。それ以外はすべて元のいんねんという意味でお使いになっていると申せます。
元のいんねんというのは一言で言うと、人間は、親神様によって元のぢばで、陽気ぐらしをするために創(つく)られたということです。これはそういう意味では明るいいんねんです。
ですから、いんねんという言葉だけを聞くと、ちょっと暗いような気がするというのは、これまでの使われ方、お道だけでなくて、元々は仏教に由来する言葉でしょうが、古くから多分に暗い説き方がされてきたことによるのでしょう。
運命といい、いんねんというようなことを申しましたが、要は、親神様のお喜び下さるような心を定めて、これを日々実行する、そうした通り方の積み重ねが運命を切り換えていくことになるんだ、ということであります。
これは逆に言うと、親神様の思召(おぼしめし)に適わないような心遣い、通り方をずっと積み重ねていくと、運命がだんだんと下がって来るということにもなります。それは埃(ほこり)を払うことなく、ほったらかしにしておくと、だんだんと黒ずみ汚れて、ついには一寸(ちょっと)やそっとではきれいにならないようなものであります。
毎日掃除している家であれば、ハタキをかけたぐらいできれいになるかもしれませんが、一週間も十日も放っておくと、ハタキぐらいではきれいにならない。もう何年もということになれば、雑巾(ぞうきん)で拭(ふ)いてもきれいにならない。ついにはこそぎ落とそうかということになったり、あるいは、もう捨ててしまおうということにもなってくるのであります。
ほこりの例えの含蓄
ほこりという言葉をお使いになっていることには、非常に深い意味合いがあると思います。ほこりというものは、これは払えば取れる、簡単に掃除ができるという意味がまずあります。
これを例えば罪というような言葉で聞きますと、何か拭(ぬぐ)い切れない暗い刻印のような感じになります。
おふでききの中で、最初にほこりという語が出てくるお歌は、
一れつにあしきとゆうてないけれど 一寸のほこりがついたゆへなりおふでさき (一・53)
であります。
悪というものはないんだ。世間で悪と言われているようなことも、一寸ほこりがついただけなんだ、と仰せになっています。
“一寸”と仰せられて、払えば取れる、払うんだよと励まして下さっています。非常にありがたい、親心を感じます。
しかし反面、ほこりという例えには厳しさもあります。ほこりは払えば簡単に取れるものでありますけれども、それだけにうっかりしていると、知らず知らずのうちに積もるということがあります。
私も教服のたもとを返してみてびっくりしたことがあります。綿ぼこりがいっぱい溜(た)まっていたんです。だれもそんな所に埃を溜めようとは思っていないわけです。また、ひっくり返して見るということもない。そのように知らず知らずに積もって、しかもなかなか気がつかないというのが、ほこりの恐ろしいところであります。それだけに毎日払わせていただくことが大切です。
おふでさき第三号には、
なにゝてもやまいとゆうてさらになし 心ちがいのみちがあるから (三・95)
このみちハをしいほしいとかハいと よくとこふまんこれがほこりや (三・96)
ほこりさいすきやかはろた事ならば あとハめづらしたすけするぞや (三・98)おふでさき (三号 95・96・98)
と、病というのは元来無い。心遣いの間違いが身上に現れて、いわゆる病になるんだ。それは、をしい・ほしい・かわい・よく・こうまんのほこりの心遣いだと仰せになっています。和歌という制約上からか、にくい・うらみ・はらだちの三つが抜け落ちていますが、このように、ほこりというものについて、おふでさきの中で、はっきりとお述べ下さっているのであります。
また、ほこりの例えは胸の掃除という例えと、いわば対になっています。さらに、澄む、濁るといった例えにも続いています。
おふでききに、
このみちハどんな事やとをもうかな せかい一れつむねのそふぢやおふでさき (十六・57)
とありますように、胸の掃除こそ本教信仰の重要な角目(かどめ)であります。ほこりという例えの奥行きの深さを思わずにはおれません。
入り込んで働いていただくために
別席のお話に、「このほこりが積もり重なるにより、親神様が体内に入り込んで働くことが出来ん、と仰せられます。人間も同じこと、ほこりだらけのその中で、きれいな働きは出来ますまい」という一節があります。
ほこりだらけの心遣いで通っていながら、親神様に入り込んで働いてもらおうと思っても、そんなむさくるしい所へはよう入らん、とおっしゃっているということです。
人間でも同じだろう、仕事場が埃だらけ、散らかし放題ではいい仕事はできまいと、非常に分かりやすい例えを用いておっしゃっています。
ですから、ほこりを払って心を澄ますということは、親神様に入り込んで働いていただく、また親神様の思召を分からせていただくための非常に大切な角目であります。
その心のほこりを払うための手掛かりとしてお聞かせ下さっているのが「八りのほこり」の話であります。
きれいな心になりなさいよ、というようなことはどんな宗教でも言うだろうと思います。
しかし、もっと具体的に、どのように掃除をし、心をきれいにするのか、ということをお教えいただいているのが「八つのほこり」の話であります。例えば青年さんに、きれいにしておけと言ったところで、掃除の道具はどこにあるやら分からない、どういうふうに掃除していいのやら分からんということだってあるでしょう。
ここにハタキがある。ハタキはこういうふうに使うんだよ。箒(ほうき)は、雑巾は、と教えてもらったら、どんな子供でも帰除の仕方が分かるようなものであります。
ただ心をきれいにしなさいというだけではなく、ほこりの心遣いを八つ数えあげて、しかも、それを詳しく説き分けて下さっていることによって、非常に身近で、実行しやすいものになっていると思います。
※この記事は天理教道友社から発行されている『みちのとも』立教162年(1999年)12月号に掲載された『基本教理を身につける[八つのほこりの説き分け1](上田嘉太郎著)』から引用しています。
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