ほしい 〜 八つのほこりの説き分け2
天理教道友社から発行されている『みちのとも』立教163年(2000年)1月号に掲載された『基本教理を身につける[八つのほこりの説き分け2](上田嘉太郎著)』から『ほしい』を紹介します。
目次
基本教理を身につける[八つのほこりの説き分け2]
上田嘉太郎著
『みちのとも』立教163年1月号掲載
ほしい
「ほしい」とは、心も尽くさず、身も働かずして金銭を欲しがり、分を忘れて良きものを着たがり、良きものを食ベたがり、また何事によらず、あるが上にも欲しがる心はほこりであります。何事もたんのうの心を治めるのが肝心であります。
心も尽くさず、身も働かずして金銭を欲しがり
これもだれもが使いやすい心遣いです。
自分が働いただけの収入を得たいと思うのは正当ですが、できることなら働いた以上に貰いたいと思いがちなものです。
あるいは、楽をして、人一倍貰いたいというようなことだって思いかねません。
それほほしいのほこりだよと、はっきりおっしゃっているのであります。
分を忘れて良きものを着たがり、良きものを食べたがり
分を忘れてということですから、自分の徳分であるとか、あるいは甲斐性と申しますか、そうしたものをわきまえずに、ごちそうを食べたい、いい物を着たいと思う。これもよくあることです。
ごく普通の主婦が、サラ金に手を出して行き詰まった、という話を時折耳にします。
そんなとんでもない奥さんというわけでもないのに、たとえば着物を買いたい、そのお金が手元に無いから借りたとか、ちょっと分不相応に見栄を張るところがあって、といった具合にです。
いわば平凡な主婦が、ついつい「分を忘れて……」ちゃんと夫が仕事を持っているにもかかわらず、そうした事情を起こすケースがあります。
男の場合は、賭け事の類いや、若い人では車がからむことが多いように思います。
いずれも金銭に関してルーズだという共通点があるように感じます。
ここに「分を忘れて」とありますが、これはお金が有るとか無いとかというだけではなくて、徳分を忘れて、ということだと思うのです。
ですから、お金があれば贅沢(ぜいたく)していい、ということではない。わしは金持ちだからごちそうを食べるんだ、いい着物を着るんだ、いい車に乗るんだ、ということではないと思います。
よく大勢で食事をしたりする時、例えばグループで旅行に行った時なんかに、食事の不足を言う人があります。
こんなもの食えるか、というような……。そこまで言わずとも、まずいとか、冷めたとか。そういう人を見ると私は、情けない人だなあ、という気がして非常にいやな気分になります。
自分がどんなに裕福であっても、粗末な食事をも感謝して食べられるという人が、本当に徳分のある人だと思います。また、無いから我慢している、質素にしているというのではなくて、有っても慎むということが大切だと思います。
有っても慎む、自分の徳分をわきまえると申しますか、徳分を越えないという気持ちが大切ではないかと思います。
何事によらず、あるが上にも欲しがる心はほこりであります
これも、今日のように物に恵まれた豊かな時代にあっては、ままあることです。
まだまだ使える道具でも、粗大ゴミの所に捨ててある。新しい物が出た、より便利な物が出たということになると、まだ使える物であっても捨ててしまう、というようなことが近ごろは珍しくありません。
着る物でも、ほとんど手を通さないまま捨ててしまうことだってあるでしょう。
小学校でも、子供たちが落とし物を取りに来ないという話を聞きます。
使い捨てどころか、使える物も捨てて顧みない風潮には、そら恐ろしいものを感じます。そのツケは、すでにゴミ問題をはじめとする環境間題という形でつきつけられています。大量生産、大量消費という生活のスタイルを見直すべき時が来ています。
すべてにわたって徹底して慎む、全くそんなことはしないとなると、これはまた窮屈になってきますが、ある先生の話に、なるほどなあと思ったことがあります。
十のものが欲しい、と思う時に、全くあきらめるのは立派ではありましょうが、それはちょっと無理だという気がします。
そんな時、八つぐらいで止(や)めて慎む、ということを教えてもらったことがあります。
全く駄目ということでなくて、十のものなら八つあるいは、七つぐらいで我慢する。あと二、三分、あるいは何がしかでも慎ましてもらう、という気持ちが大切かと思います。
何事もたんのうの心を治めるのが肝心であります
『広辞苑(こうじえん)』の編者である新村出(しんむらいずる)博士の「たんのう考」によりますと、「たんのう」の原義は足りているということだそうです。足りぬ、足んぬと変化したとのことですが、このことからも分かりますように、たんのうとは満足したという心の状態です。
苦しい境遇に置かれたり、悲しい出来事に出遭った時などによく使われる語であるだけに、我慢や辛抱と混同されやすいのですが、その受け止め方、気分のベクトルは反対向きと言っていいでしょう。
困難な状況の中でたんのうするとは、歯を食いしばって我慢したり、泣く泣く辛抱することではありません。これで結構、有り難いと前向きに受け止め、心を励まして踏ん張ることです。また、そこに運命の切り換わる道が開けてくるのであります。
たんのうはまた、あきらめの心情でもありません。無い状態、悪い状態を無気力に受容することではありません。
たんのうは、前生いんねんのさんげ、というお言葉にうかがえるように、成ってきた事柄を成るベくして成ったものと受け止め、その因(よ)ってくるところを思案し、芳しくない運命を転換すベく、理づくり、努力することを決意することです。
ほしいのほこりに則して言えば、金銭や物が十分にないことを不足に思ったり、いたずらに嘆いたりするのではなく、それが現在の自分にふさわしい与えと納得して受け止めるということです。
また、金品ばかりでなく、人に「ああして欲しい、こうして欲しい」と求める心遣いも、ほしいのほこりの内でしょう。
無いことや、意に沿わぬ人に対して不満を抱いたり、人のせいにしたりするのではなく、成ってきた理を思案し、自らの努力によって必要な物を得よう、人間関係を改善していこうと決心することです。
※この記事は天理教道友社から発行されている『みちのとも』立教163年(2000年)1月号に掲載された『基本教理を身につける[八つのほこりの説き分け2](上田嘉太郎著)』から引用しています。
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