にくい 〜 八つのほこりの説き分け3
天理教道友社から発行されている『みちのとも』立教163年(2000年)2月号に掲載された『基本教理を身につける[八つのほこりの説き分け3](上田嘉太郎著)』から『にくい』を紹介します。
目次
基本教理を身につける[八つのほこりの説き分け3]
上田嘉太郎著
『みちのとも』立教163年2月号掲載
にくい
「にくい」とは、自分のためを思うて言うてくれる人をかえって悪く思うてその人を憎み、また、嫁・姑(しゅうとめ)など身内同士の憎み合い、更には人の陰口を言うてそしり笑い、その場で出来た罪を憎まず、人を憎むなどはほこりであります。
をしい、ほしいというのは、主として物に対する心遣いであります。
自分の持っている物を手放すのは惜しい、あるいは、できる働きもしない骨惜しみ。また、自分が持っていない物を欲しいということです。さらに、人に「ああして欲しい、こうして欲しい」という場合でも、求めているのはその人の行為です。直接、人に向けられた感情ではありません。これに対して、にくいというのは人に対する感情です。
そういう点から言って、これはやはり、をしいや、ほしいよりも、ちょっと重いほこりになるのではないかという気がします。
自分のためを思うて言うてくれる人をかえって悪く思うてその人を憎み
例えば、近ごろの新入社員は、叱(しか)るとすぐに辞めるというようなことを聞きます。
だから、うっかり叱れない。辞めないまでも叱ったらすねてしまうとか、根に持つとか、なかなか難しいようです。新入社員に限らず、子供に対してでも叱らない、叱れないという親が増えてきています。そんなことをして家出でもされたら大変だとか、グレられたら大変だとか、余計な心配をして、言うベきことも言えない。
今は叱らずにおだてる時代だ、ということも耳にします。私なんかも教会を預かっている関係で、若い者をたまに叱ることがあります。これも注意しやすい人と、しにくい人があります。やはり思いきって叱れるのは、こっちが安心して叱れるだけの徳分を持ってるんだろうなという気がします。ここで厳しく注意したら、ふくれるのとちがうかなあ、というような場合には、やはり注意しにくいのであります。
そういうことを思いますと、叱ってもらえる、注意してもらえるのはありがたい、という気持ちになることが大切です。
逆に、注意、忠告する側の人間に信念、自信がないから言わない、言えないということもありましょう。双方共に言えることは、感情的にならず、あるいはたとえ感情的になったとしても、理のあるところを尋ねる、思案する、そして、理に沿っていくことだと思います。
にくいという言葉の響きはちょっときついのですが、こうして具体的に説き分けてもらいますと、にくいというほこりの中には、こういう心遣いもあるんだなあ。自分もついついそんな心で通っていたなあ、と思い当たることがあると思います。また、
嫁・姑など身内同士の憎み合い
別席のお話では「嫁を憎み、養子を憎み……」とありますが、今日では嫁いびりの逆のケースも少なくありません。いずれにせよ、こうしたことはままあると申しますか、昔から「嫁・姑」は永遠のテーマである、などと言ったりもします。
しかし、お道では、嫁というのは元来自分の娘であるものが家に帰って来たのだ、とお教えいただいています。実に味わい深い教示だと思います。これは、嫁の側から言えば、舅姑が本来の親だということです。これをお互いがしっかりと心に治めさせていただくことであります。
だからと言って、すぐさま仲良くなる、というわけにはいかないかもしれませんが、それを知っているのと知らないのとでは大いに違ってくると思います。知らなければ、互いに相手を責める、憎むばかりのところを、反省する手がかりを聞かせてもらっているおかげで、何とか治まっているというケースだってあるでしょう。それはそれで信心の賜物と言えると思います。
信仰したら何でも完璧(かんぺき)にやれるんだ、ということではないと思います。みんな出発点も違えば、成人の度合いも異なるのですから、形に現れる姿もさまざまです。しかし、確かなことは、信仰せずにいる場合より、お道の信仰をしているおかげで必ず結構になっているということです。ですから、本当ならば、こんなことでは済まないところを、それよりも一段も二段も軽く済ましていただいているのだなあ、と喜ばねばなりません。
しょっちゅう喧嘩(けんか)しているかもしれないけれども、口喧嘩だけですんでいるからありがたい。殴り合いになったり、刃物を振り回したり、家を飛び出したり、そんなことにならないだけでもありがたいなあ、そんな具合に喜んでいれば、また家の空気も変わってくるはずです。
人の陰口を言うてそしり笑い
これもにくいのほこりだよ、とおっしゃっているのであります。
私はにくいのほこりなんかと関係がない、と思っている人でも、このように具体的に聞かせてもらうと、そうでもないなあ、と思い当たることがあるのではないでしょうか。また、今日はつまらんうわさ話をしたなあ、と反省もできるんじゃないかと思います。
私の家の入信は明治九年、上田ナライトという方の身上が動機であります。この方はのちに本席様の後、おさづけの理をお渡し下さった方ですが、伝記を読みますと、人の悪口を一切言わない人であった、また聞くのも非常に嫌いだったということです。人がそういううわさ話をしていると、スッと席を立たれた。そんな方であるということを知りまして、われわれその血につながる者はなおさら、こうしたことをいつまでも忘れないようにさせてもらわなければいけないと強く感じている次第です。
その場で出来た罪を憎まず、人を憎むなどはほこりであります
例えば、交通事故なんかに遭った時、決して悪気があったわけではない、ちょっとした過失から起こった事故で、事故を起こした者が謝っている。しかし、その人に憎しみをぶつける、くってかかるというようなことも、ありがちなことです。
立教以前の御事跡ですが、米盗っ人を捕らえて、代官所へ訴え出ようといきまいている人たちに、「それは貧に迫ったあまり盗む気になったのであろう。その心がかわいそうや」と、許されたばかりでなく、米を与え、後々を諭された教祖のお姿こそ、「罪を憎んで人を憎まず」の極みと申せましょう。
※この記事は天理教道友社から発行されている『みちのとも』立教163年(2000年)2月号に掲載された『基本教理を身につける[八つのほこりの説き分け3](上田嘉太郎著)』から引用しています。
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