うらみ 〜 八つのほこりの説き分け4
天理教道友社から発行されている『みちのとも』立教163年(2000年)3月号に掲載された『基本教理を身につける[八つのほこりの説き分け4](上田嘉太郎著)』から『うらみ』を紹介します。
基本教理を身につける[八つのほこりの説き分け4]
上田嘉太郎著
『みちのとも』立教163年3月号掲載
前回、冒頭で、おふでさき、
このみちハをしいほしいとかハいと よくとこふまんこれがほこりやおふでさき (三 96)
のお歌に登場しない、にくい、うらみ、はらだちの出典について述べました。この三つのほこりには相通ずるものがあります。つまり、にくいという思いが内にこもったものが、うらみであり、激しく荒立った状態が、はらだちだと言えるからです。
いずれも、自分の気に入らない、また、意に反するものによって引き起こされる心遣いだと言ってよいでしょう。それだけに、何か暗さ、おぞましさを感じさせる点も共通しています。それも、お歌からもれた理由かもしれません。
うらみ
「うらみ」とは、わが顔つぶれたとて人を恨み、わが望みを妨げたとて人を恨み、だれがどう言うたとて人を恨み、意趣に持ち、銘々知恵、力の足らんことや、徳のないことを思わずして人を恨むのはほこりであります。みかぐらうたに「なんぎするのもこゝろから わがみうらみであるはどに」とありますから、人を恨まず自分の身を恨むがよろしい。
うらみ、という語を辞書で引くと、まず「うらむこと。にくいと思うこと」と出てきます。さらに、〈うらむ〉を引くと、「他からの仕打ちを不当と思いながら、その気持ちをはかりかね、また、仕返しもできず、忘れずに心にかけている意」(『広辞苑』岩波書店)とあります。このことからも分かるように、自分に不快、不利益なことをした人や物事に対して、不満や憎しみを持ち続ける心情を指します。
したがって、うらみというのは、根に持つといいますか、場合によっては長年にわたって人に対して憎悪を抱くことにもなります。幽霊のあいさつは、「うらめしや」というのが決まり文句になっています。
そういう点で、これはにくいというほこりが内攻し、くすぶっている状態と言えそうです。
わが顔つぶれたとて人を恨み、わが望みを妨げたとて人を恨み、意趣に持ち
世の中には不満家といいますか、いつもグチや不平を言っている人がいます。
おれは本当は、こんな会社でこんなしがない仕事をしている身じゃないんだ。だれそれのせいでこんなことになった。世の中の仕組みが悪くてこんな羽目になったといった具合に。
高校時代の先生で、おれは本来こんな所にいるべき人間じゃないんだ、というようなことを、いつもブツブツ言い続けていた人がありました。そんなふうに、人のせいにしたり、世間のせいにしたり、それを恨みに思って通るのは、まことにうっとうしい生き方です。また、それを始終聞かされるほうもたまりません。不如意(ふにょい)な境遇を受け入れるための儀式かもしれませんが、冷めた目で見れば、言い訳、責任逃れとも映ります。
いつまでも過去の事柄にこだわっていては、結局、今のことや、これから開けるべき運命をもつぶしてしまうのではないでしょうか。また、人を恨んで通る毎日は、非常にストレスのたまる生活でもあろうと思います。病気にならずには済まないという気がします。
ある先輩の先生から、ガンの身上の方のおたすけの時に、「何か恨みに思っていることはありませんか」と問うと、「いや実は……」とおっしゃるので、「人を恨んで恨んで通ったところで、相手には痛くもかゆくもない。むしろ、わが身を苦しめ傷つけるだけだ」というお話をしたと聞かせてもらったことがあります。ガンに限らず、人を恨み続けることが身体に障らないはずがありません。
「意趣に持ち」とは、恨みを含むことです。意趣返しという言葉もあるように仕返しをもくろむような恨み方です。
しかし、そうしたこともよく考えてみれば、自分にも何がしかの責任があることが少なくないのではないでしょうか。 それを、
銘々知恵、力の足らんことや、徳のないことを思わずして
と、指摘されています。
人を恨みたい気持ちになった時には、まず自分自身を振り返ってみる。果たして自分がするだけのことをしてきたか。自分にそれだけの能力があるのだろうか。あるいは、自分にそれだけの徳分があるか、などと振り返らせてもらうことを忘れてはなりません。
そうすれば、自分が努力を怠ってきたと思い当たる節もあるでしょう。不向きだったと納得できる場合もあるでしょう。
どんな人でも、自分の思いどおりに人生を歩めるものではありません。人生航路というものはだれであれ、時代の流れや、ハプニング、出会いといった、良きにつけ悪(あ)しきにつけ、自分ではどうすることもできない事柄に左右され、時には翻弄(ほんろう)されがちなものです。
それがたとえ芳しくないものであっても、それを肥やしにし、バネにするのと、そこで心を倒してしまうのとでは運命は大きく分かれるに相違ありません。
あるいはまた、人の恨みを買うようなことをしてこなかったか、という反省をしてみることも必要かと思います。
前記のおたすけ話は、「今生一代では思い当たることが無くとも、前生でその人を苦しめるようなことがあったかもしれないとさんげし、たんのうするように」と続きます。恨みに曇った心を晴らしてから取り次ぐおさづけの効能はてきめんだということてす。
そのように、先の世へまでさかのぼって思案することによって心が治まることもありましょう。
また、人を恨んだり、世を恨んだりするのは、恩を感じる感謝の心が簿いから、とは言えないでしょうか。
心ない仕打ちを受けたり、あるいは不運な目に遭ったにしても、全体としてみれば、多くの人のおかげで今日があり、何よりも絶大なる親神様のご守護によって生かされていることは間違いありません。恨みに思う心は消えないにせよ、目を転じて、これまでに受けてきた恩を数え上げてみてはどうでしょう。
これは余談かもしれませんが、たとえば、第二次大戦中の日本軍の行為が、今でも問題にされることがあります。
日本人は、割合何でも水に流すという気質ですが、現他の人たちはその恨みを決して忘れていない、ということを聞きます。
こういう場合でも、うらみのほこりを積んでいることになるのだろうかと思って、「わが身うらみ」とはどういうことなのか考えてみたことがあります。
連載の二回目に書いた「かき寄せる手振りが、ほこりであるか否かの物差しになる」という話を手掛かりに思案しますと、自分中心の身勝手な恨みでない以上は、ほこりとは言えないと思います。
さらに言えば、そうした恨みも個人的なレベルにとどめずに「罪を憎んで人を憎まず」という、いかにすればそのような悲劇を繰り返さずに済むかという思案に昇華されるならば、教訓として一層生きるのではないでしょうか。
ですから、「わが身うらみ」というのは、自分のことをうらめしいと思ったりすることではなくて、自分自身の通り方をしっかりと振り返り、そして、決して操り返さない、繰り返させないという決意をする、自らを戒める、という意味合いだと思います。
これは、社会的な事件や出来事によって難儀(被害)をこうむった場合についても言えることのように思います。
※この記事は天理教道友社から発行されている『みちのとも』立教163年(2000年)3月号に掲載された『基本教理を身につける[八つのほこりの説き分け4](上田嘉太郎著)』から引用しています。
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