こうまん 〜 八つのほこりの説き分け5
天理教道友社から発行されている『みちのとも』立教163年(2000年)4月号に掲載された『基本教理を身につける[八つのほこりの説き分け5](上田嘉太郎著)』から『こうまん』を紹介します。
基本教理を身につける[八つのほこりの説き分け5]
上田嘉太郎著
『みちのとも』立教163年4月号掲載
こうまん
「こうまん」とは、力も無いのにわが身高ぶり、人を眼下に見下し、富や地位をかさに着て、人を踏みつけにするのはほこりであります。また、己は偉い、己は賢いと思うて人を侮り、あるいは、知らぬことを知りた顔して人を見下し、人の欠点(あな)を探す、これがこうまんのほこりであります。
こうまんというほこりが、「八つのほこり」の最後に登場します。軽いものから順に、という話からすれば、なぜ、こうまんが最後にくるのかなあ、と考えてみたりするのですが、私が思案しますには、一つは、これは財産がある、頭が良い、立場がある、というような恵まれた人、立派とされている人が積みやすく、しかも気が付きにくいところにあるかと思います。また、自己中心的であるだけでなく、他の人を見下す、抑えつけるような心遣いでもある。そうしたことから、最後にきているのではないかと思います。
高慢と言えば、威張るとか、見下げるといった態度を思い浮かべます。
力の無い人が威張ってみても、たちまち鼻をへし折られ、笑い者になるのがオチでしょう。やはり、何らかの力の裏付けが無ければできることではありません。
しかし、金も地位もない人でも自慢したり、ひけらかしたりという程度のことはあるでしょう。また、家柄や学歴を誇ることや差別する心も高慢に通じる心遣いと言えましょう。
人はだれでも、少しでも人の上に立ちたい、出世したいと思うものです。学歴社会、受験戦争はまさにそうした心情の産物です。
おふでさきの十三号には、
高山にくらしているもたにそこに くらしているもをなしたまひいおふでさき (十三 45)
と仰せになった後、人間はみな等しく神のかしものであり、高低はない。それを何か高低があると思うことが、争いの元になると諭されています。大は戦争から小は身辺の争いまで、相手を下に見る、さげすむ気持ちから発していると言ってもいいと思います。
翻って言えば、争いを治める元は、お互いを対等な兄弟とみなすことと言えそうです。先のお歌に先立って、
せかいぢういちれつわみなきよたいや たにんとゆうわさらにないぞやおふでさき (十三 43)
とあります。
力も無いのにわが身高ぶり、人を眼下に見下し
実力が無いのに虚勢を張る、見えを張る。徳分も無いのに偉そうにする。何もない時はそれで通っても、いったん事が起こればたちまち化けの皮ははがれます。見かけは本物そっくりでも、はりぼての柱では荷重に耐えられません。
また、たとえ力があったとしても人を人とも思わない、高ぶって見下す、というようなことは、もちろんほこりであります。力はあっても徳はないと言うべきでしょう。
富や地位をかさに着て人を踏みつけにし
金があるから、あるいは地位、立場があるからと言って、人をないがしろにすることもほこりである。また、そうした人は得てして、自分よりも上の立場にある人にはへつらい、追従するものです。
そうすると、自分などはそれほど金もないし、地位もないから、あんまり高慢と関係ないかな、と思ったりするかもしれませんが、決してそうではない、ということが次に出てきます。
知らぬことを知りた顔して人を見下し
知ったかぶりというやつです。偉そうに得々としてしゃべっていても、事情に通じている人が聞くと噴飯物(ふんぱんもの)ということがあります。いい加減さが露呈して大恥をかくことにもなります。クサイなと感じる話は、はめられないように眉(まゆ)にツバをつけて聞きましょう。
また、例えば部下に質問をされた時に、面子(めんつ)を気にして、知らないとか、分からないと言えずにごまかしたり、あまつさえ質問を封じたり押さえ込んだりとなると高慢のそしりは免れません。面従腹背(めんじゅうふくはい)、言うべきことも言わなくなるのは必定です。
一方、立場のある人は時に、間違ったことでも押し通すことがあります。力があるだけにかえって始末が悪い。悪影響は広範囲に及びます。
人の欠点を探す
あるいは人の欠点を探す。あら探しをする。人の失敗を見て笑ったり、人の欠点を並べ立てて馬鹿にしたり、これも高慢のほこりだとおっしゃっています。大なり小なり覚えがありそうです。
覚えがあるなら、これからは人の良い所を探す、ほめることを心掛けたいものです。
本席様は教祖から「十人の上に立つ者は十人の下に心を置くように。百人の上に立つ者は百人の下に……」のお仕込みを頂かれたと伝えられています。
世間でも「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」と申します。低い心とは何もご機嫌とりや卑屈になることではありません。立場や権限があっても、またあるほど、たとえ目下の者にでも同じ目線、対等な気持ちで接するようにということでしょう。それでこそ、部下も心を寄せ、力を合わせて働いてくれるということです。
ところで、「力がある」とは、一体どういうことでしょうか。権力、金力、知力も力の一つには違いないでしょうが、結局のところ、親神様のお働きを頂ける力に勝るものはありません。おかきさげに、自由(じゅうよう)自在のご守護を頂戴できる心遣いは「日々常に誠一つ」と仰せられています。また、誠の心は天理に適(かな)うからして、すぐに働くともあります。そして、その誠の心の極めつけが「人をたすける心」であると仰せになっています。
最後に
ですから、これをしっかり覚えるとともに、日々の心遣い、通り方に当てはめながら、ほこりを払う手掛かりにする、ということをお願いしたいと思います。
※この記事は天理教道友社から発行されている『みちのとも』立教163年(2000年)4月号に掲載された『基本教理を身につける[八つのほこりの説き分け5](上田嘉太郎著)』から引用しています。
他のほこりはこちら
◆
八つのほこり拝読用はこちら
↓
コメント